2022年1月18日公開 更新:2024年2月20日

マルタ・アルゲリッチと50年

50 Years with MARTHA ARGERICH

マルタ・アルゲリッチの知られざるエピソード  by Y. KOSEKI

 

9. 第16回 ショパン国際ピアノコンクール・3次予選 (2010年10月)– その1

審査員席からステージを望む

一度はショパンの故郷、ポーランドへ行ってみたい。どうせ行くならショパン・コンクールの年でしょう。今年は生誕200年のショパン・イヤー、また、アルゲリッチも審査員、となれば、これは行くしかない。という訳で、16回ショパン国際コンクール(3次予選)にやって来た。本当はファイナルまでいたいのだけれど、そこまで仕事は休めない。3次予選は、ソナタ、幻想ポロネーズの他、マズルカやノクターンなど、最もショパンらしい曲に浸れるし、ファイナルには進めない未完の才能にも触れることができる。ある意味、最もショパン・コンクールを堪能できるステージだ。朝10時から1人1時間少々で4人。途中、小休憩が入るので、午前の部だけで5時間近くかかる。午後は5時から同じように4人、約5時間。まるで、ワーグナー、ダブルヘッダー連日のような、聴衆にとっても審査員にとっても過酷なスケジュールだ。

会場にはとにかく多くの日本人がいる。会場の2割近くを占めるのではないだろうか。ロビー、特にお土産店の前は日本人しかおらず、まるで日本で開催されているみたいだ。とにかく人気のコンクールなので、郵船トラベルやHISといったツアー会社も多数、企画をしている。もともと歴史も権威もある世界的なコンクールなのだが、1985年の同コンクールをNHKが特番で取り上げ、ブーニンを日本のスターにしてしまった。彼はアイスクリームのCMにまで登場し、もともとのクラシック・ファンというよりは、クラシックに疎遠だった人達から多くの支持を集め、その後の日本での同コンクールの位置付けが変わってしまった位である。その流れは、2000年の大会のユンディ・リも同様で、他国の人達には、何でこんなに沢山の日本人がこのコンクールを観に来るのか、不思議に映るかもしれない。NHKのドキュメンタリーは、とにかく編集が傑出していて、映像の世界の頂点を極めている。フジコ・へミングもNHKが取り上げなかったら、あれほど有名にはならなかったと思う。

 ショパンゆかりの観光スポットには世界中から多くの人が訪れ、空港から小学校、大学の名前にもショパンの名が。世界中から愛される偉大な芸術家が1人生まれると、その国の観光資源を永遠に支えることになる。ショパンの経済効果というのは、いったい年間どの位になるのであろうか。

コンクール会場:ワルシャワ・フィルハーモニー・ホールの入り口

さて、3次予選、初日冒頭から、とにかくハイレヴェルなのに驚いた。皆20才前後というのに、もはや立派なピアニスト達だ。これが世界レヴェル。相当弾けて当たり前で、そこはスタート・ラインでしかない。無理に個性を出そうとしても、すぐに化けの皮が剥がれて透けて見えてしまう。残念だったのは、そして誰もが予想しなかったのは、2次予選で、日本人が全員姿を消したこと。参加81人中、17人(内、1人はアメリカ生まれ・育ちなのでカウントに入れるのはどうか)もいたのに。1次予選からしっかり聴いていた人によると、残念だけれど納得の結果、なのだそうだ。今は日本は、家電、エレクトロニクスといったお家芸ですら世界中にやられっぱなしで、ここでも元気の無い日本を感じてしまった。

皆、優秀なピアニスト達なのだけれど、しかしながら、明らかに3次予選止まりのピアニストもはっきりわかってしまうのも、コンクール。初日、印象に残ったピアニストは、演奏順に、No.2 Leonora Armellini(カワイ):リリヤ・ジルベルシュタインの弟子らしく、音楽的にも良いものを持っている。No.24 Claire Huangci(ヤマハ):表現しようとする音楽が素晴らしい。ソナタ2番の冒頭は釘付けだったが、所々危ないところもあり、本選出場は難しいかもしれない。圧巻だったのは、というよりそんな言葉が陳腐に思えてしまう位だったのが、No.5 Evgeni Bozhanov(ヤマハ)。もはや完成された素晴らしいピアニストで、テクニック云々という次元をはるかに超え、音楽性はいうに及ばず、美しくピアノを鳴らす術も持ち合わせ、今、これだけの演奏ができるピアニストが、はたしてどれだけいるだろうか、と思わせる位だった。演奏は、幻想ポロネーズ、3番のソナタの後に、マズルカ(しかも、3曲とも嬰ハ短調で統一)、ワルツを持ってきていて、もはやコンクールではなくて、彼のリサイタルと、そのアンコール。演奏が終わったら観客は総立ち。残りの日程を待つまでもなく、彼の優勝は明らかだ。というより、他に素晴らしいピアニストがいたとしても、彼に順位を付ける事自体、意味を成さない、絶対評価としての1位。ちなみにピアノ椅子は持参してきた、との事。

アルゲリッチの審査員席だけお花が

さて2日目。最初から全く弾けていないピアニストが出てきて驚いたが、これが彼女の本来の実力なのか、たまたま調子が悪いのか、準備不足なのかはわからない。でも、彼女も実力で3次予選まで来たのだから、これもコンクール、仕方が無い。それにしても、これでは2次予選で消えていったピアニスト達が浮かばれない気もした。今日もロシアン・パワーが炸裂。出る人弾く人、とにかく皆物凄い。ただし、中にはリストみたいにバリバリ弾きまくり音も煩く、1時間、拷問のような人もいたが(でも、まだ彼はまだ18歳!)。何といっても今日のヒロインは、No.3 Yulianna Avdeeva (ヤマハ)。昨日、Bozhanovで決まり、と思ったが、まさかの逸材が登場してきた。表現しようとしている音楽、スケールの大きさ、pp の表現力、その凄さに、もう、ああ〜っと声が出てしまった。皆打ちのめされた感じだ。そうしたら、今度は、No.79 Ingolf Wunder (STEINWAY)が出てきた。とにかく音の粒立ちが美しく、またしても別な完成度を持ち合わせたピアニストだ。幻想ポロネーズは誰もが絶賛。彼には、既に多くのサポーターが付いていて、彼の入場からして会場の拍手の温度が違う。もう、こうなるとコンクールではなく、逸材ピアニスト達の競演だ。皆、桁外れに素晴らしく、こんな演奏会など経験も記憶にも無い。もう順位など、どうでも良くなっているというか、どうやって順位を付けるのだろう。でも、こんなピアニスト達の後に弾く人はかわいそうだ。平面的で凡庸さがあからさまに露呈されてしまう。でも、それもコンクール。

忘れられないのが(というか、メディアで取り上げられないかもしれないので、あえてここに記するが)、No.75 Irene Veneziano (FAZIOLI)。とにかく音楽に歌があり、心の内面に語りかけてくるのだが、コンクールでは生き残れないかもしれない。彼女をサロンで、プレイエルで聴きたいなあ。

ショパンが弾いていたプレイエルと、所蔵しているショパン博物館

初日の前半が終わった時、これが、あと4回あるのか、と思ったら体力が心配になった。というのも、椅子が体に合わない。少し後に座ると座面が収納状態になって、足が持ち上がってしまう。1日の1/3以上をこの椅子と付き合うとなると、毎日日本とヨーロッパを飛行機で往復しているようなものだ。しかし、蓋を開けてみれば本当にあっという間。気づいたら、もう残すところ半日しかない。それだけ毎回、とんでもない逸材が登場していている、ということだ。ああ、もっと聴きたい! 結果も気になるけど、それより、この人達のコンチェルトを聴いてみたい。最後には、どんなドラマが待っているのだろうか。

という訳で、もう3次予選最終日。今日も最初からロシアン・パワー。何で、こんなに逸材が次から次へと登場してくるのか。手の故障でキャンセルしたNo.61 Yury Shadrinが弾いていたら、どうなっていたのだろう。しかし、No.9 François Dumont (FAZIOLI)が流れを変えた。内面が成熟した、大人の世界。姑息な音のテクニックに終始しているようではここまで到達できない。これが本当の音楽だ。テクニックは、あくまで表現する手段。その手段のレヴェルを競うのがコンクールではない。ピアニストは、まず芸術家なのであり、何を感じ、そしてどう表現したいのか、その原点が無ければ、表現する手段があっても、その先が無い。芸術家としての内面性が無く、たまたま小さい時からピアノが上手に弾け、先生の言うことをおりこうさんに実践してきた人には、聴衆の心は動かせない。今、ここで弾いている人達は、20歳そこそこで、もう芸術家としての自我がある。そして、このコンクールでは、その芸術家としての資質が問われているのだ。ショパンの演奏にはそれが出る。だから、最高峰のコンクールなのだろう。それにしても、テクニックも精神性も早熟な人達が、よくもこんなに集まったものだ。

ここは、ショパン・コンクール。曲はショパンのみ。ショパンでなかったら、もっと評価の高いピアニストも沢山いると思う。でも、晴れた空の下、筋トレでもやっているような、あまりに健康的な明るいショパンだったり、とにかくバリバリに弾きまくっていて、リストも驚いて墓からでてくるような演奏では、気持ちは離れてしまう。最高峰としてのピアノ・コンクール、でもショパンの曲だけ、という難しさが実際に来て聴いてみて、本当に実感できた。

会場ロビーには、歴史展示
 

アルゲリッチの録音、来日記録:Martha Argerich Recordings

#Argerich  #アルゲリッチ  #Chopin_Competition  #ショパン・コンクール

目次/タイトル