2022年1月15日公開 更新:2024年2月27日

 

マルタ・アルゲリッチと50年

50 Years with MARTHA ARGERICH

マルタ・アルゲリッチの知られざるエピソード  by Y. KOSEKI
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1. はじめに

 

1972年、14歳の時、突然アルゲリッチが女神として降臨してきた。私は彼女を通して、ショパンをシューマンをラヴェルをプロコフィエフを知り、ピアノ音楽の世界を広げていった。思春期の少年にはあまりにも影響力が強く、眩し過ぎる彼女の存在。永遠のマドンナ。

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2. 真の天才と裸の王様

 

2005年1月。成田からホテルに着いた彼女を迎え入れた。見ると表情は暗く、青ざめている。
「どうしたの?」「モーツァルトのニ短調のコンチェルトなんて私には難しくて弾けないわ。あれは地獄の音楽よ。わかる? ああ....」

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3. ピアノを鳴らす天才 

 

昔から超絶技巧、天才と言われてきた音楽家は数知れず。その中でもアルゲリッチは別格的存在だ。音楽を表現するためのテクニックだけれど、テクニックがあれば自由自在に表現でき、制限から解放される。その代表格が彼女だ。天衣無縫、と言われる所以。

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4. 珠玉の緩徐楽章 

 

かつてはこれが弾ければ一角の演奏家、等と言われた難曲も、今や小さな子供たちがコンクールで弾いている。ロックの世界で、超絶技巧と崇められたギターやドラム・プレイも、普通に小学生がコピーしてYouTubeを賑わしている。

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5. 私は不幸よ 

 

2015年5月。「元気?」 「奥さんは元気?」 彼女は、いつも私自身だけでなく、私の家族の事も気遣う。
「マルタさんは?」「私は不幸よ。」「えっ、どうして??」
 
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6. 聖地巡礼-1 

 

19989月、ブエノス・アイレスで国際学会がある。おお、それは行くしかない! 写真家の木之下 晃さんのアトリエで、「今度、アルゼンチンに行く」と言ったら、数万枚ある写真ファイルから、即座にアルゲリッチの生家とスカラムッツァの写真を出してくれた。

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7. 聖地巡礼-2 

 

イグアスの滝・悪魔の喉笛。訪れた時は、大雨による洪水の直後で、滝の先端にある展望台までの歩道橋が流されていた。「船で展望台まで行ってやる」という人がいて、命がけで見て来た。

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8. 良いファンであり続けること 

 

音楽を聴いていると、恋愛感情と似た感覚に陥る時がある。胸がキュンとして、狂おしさすら感じる。また、異性(時に同性)の演奏家へのファン心理は、恋愛感情と同じ、あるいは近似的でもある

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9. 第16回 ショパン国際ピアノコンクール・3次予選 (2010年10月)– その1 

 

第16回ショパン・コンクール(3次予選)にやって来た。本当はファイナルまでいたいのだけれど、そこまで仕事は休めない。3次予選は、ソナタ、幻想ポロネーズの他、マズルカやノクターンなど、最もショパンらしい曲に浸れるし、ファイナルには進めない未完の才能にも触れることができる。

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10. 第16回 ショパン国際ピアノコンクール・3次予選 (2010年10月)– その2 

 

今回、使われたピアノは、STEINWAY、FAZIOLI、ヤマハ、カワイの4台。STEINWAYの状態は良いとは思えなかった。本来の美しい音が出ていない。でもWunderは、異次元の美しさを引き出していた。反面、ヤマハは ppp の響きがこの上なく美しく出せるところがあって....

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11. 第16回 ショパン国際ピアノコンクール・3次予選 (2010年10月)– その3 

 

1位は、Yulianna Avdeevaで、2位はLukas GeniušasとIngolf Wunder、3位にDaniil Trifonovで、3次予選で私に衝撃を与えたEvgeni Bozhanovは、何と4位だ。しかも何も賞が与えられていない。

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12. 第16回 ショパン国際ピアノコンクール・3次予選 (2010年10月)– 後日談

 

後日、このコンクールで、誰が良かった、とか、某ピアニストは人気があったけれど、絵で例えれば描きすぎ、塗り過ぎだ、とか、いろいろ話をした。また、とある参加ピアニストは、前回のコンクールでダメだった後ワルシャワに残り、ポーランド人の恋人を作り....

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13. グリーグは弾きにくい

 

10回別府アルゲリッチ音楽祭。この時、別府と東京の紀尾井ホールで、グリーグのピアノとチェロのためのソナタ イ長調 Op.36 が演奏された。チェロは長年の朋友マイスキー。彼女は沢山のピアノ協奏曲を演奏してきているけれど、グリーグのピアノ協奏曲は、1968年10月にスウェーデン、1969年7月にブエノス・アイレスで演奏しただけだ。

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14. メロンの彫刻

 

彼女の滞在している部屋が乱雑であるのは有名で、ファンなら誰しもが知っている。写真週刊誌なら、できるだけ汚い、めちゃくちゃに散らかった時の部屋の写真を撮って掲載し、「どうだ!」といったところだろう。

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15. 2000年のソロ・コンサート(2000年2月 東京)

 

2000年1月27日、彼女が敬愛してやまないグルダが亡くなった。葬儀ではずっと棺の傍らに立ち尽くし、最後に涙をぬぐったという。その足で空港へ向かい、成田に着いたら即、公演のあるサントリーホールへ直行。

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16. 2000年のソロ・コンサート(2000年3月25日 NY)

 

という訳で、325日にニューヨークのカーネギー・ホールでリサイタルが行われた。NY/カーネギー・ホールでのソロは実に19年ぶり。当日のボックス・オフィスにはキャンセル・チケットを求めて長蛇の列、座り込み客が殺到したが、プラチナ・チケットはあろう筈もなく、皆、目はうつろで宙を見たままだ 。

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17. 2000年のソロ・コンサート(2000年11月 東京)– その1

 

延期となった公演は、秋へ。ところが、コンチェルト、マイスキーとのデュオ公演、東山小学校との共演、そしてソロ(+デュオ)公演、と超過密スケジュールだ。全部で12公演もあり、まるでアルゲリッチ音楽祭のよう。

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18. 2000年のソロ・コンサート(2000年11月 東京)– その2

 

公演は2回行われた。全部ソロは負担が大きいので、後半はデュオ。これはNYと同じだ。プログラムは、相談して決まった曲に少々加わったものとなった。後半は定番とも言うべきもので、結構な長丁場。 東京で最後のソロは1984年で、16年ぶりだ。

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19. イヴリ・ギトリス

 

彼は自由すぎるフレーズ故に19世紀スタイルの最後の演奏家などとも言われている。初めは面食らってしまう人もいるだろうけれど、素直に彼の音楽に委ねていく内に、それが生きていて語りかけてくる音楽そのものであり、そしていつの間にか虜になっているのに気づくだろう。

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20. イヴリ・ギトリス – 番外編

 

2006年4月、別府アルゲリッチ音楽祭にて。深夜、ヴィターリ・マルグリスの誕生日だから、と電話すると留守電だった。すると、ギトリスがヴァイオリンを取り出し、思いっきり 下手くそでよれよれな "Happy Birthday" を弾き始めた。
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21. 有名人と付き合うということ

 

よく聞く話。「俺は〇〇と友人だ、という人を知っている」。さらに進化して「俺は〇〇と友人でね」。しかし〇〇に聞いてみると、友人や知人だったことはあまりない。
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22. アルゲリッチと錦糸町

 

「錦糸町はね、どこか故郷、アルゼンチンに似たところがあって好きなの。」 気取らない下町情緒がいいらしい。ホールも、トリフォニー・ホールはお気に入り。2008年晩秋、そんな錦糸町を夜、散歩することになった。
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23. アルゲリッチの漫画

 

FMレコパルに、アルゲリッチが登場する漫画が掲載された。1978年(号数不明)に「ピアニストの女王 マルタ・アルゲリッチ」、1980年4/28-5/11号に「わが心のピアニシモ 〜スティーブン・ビショップ・コワセビッチ〜」。
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24. ネルソンとのピアノ・デュオ

 

ホールでリハーサル。大変興味深かったのは、ラフマニノフの組曲第2番。通常弾く半分の速度でゆっくりと弾き合わせていった。一つ一つ確認するように。その気になれば、いきなり普通のテンポでも弾けるだろうけれど。
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25. 恐怖の譜めくり

 

2005年、別府。マラソン・コンサートのリハを聴いていた。ブラームスのクラリネット五重奏曲。クラリネットのパートはバシュメットがヴィオラで弾いている。するとアルゲリッチが、「ねえ、譜めくりやってよ。大丈夫、ちゃんと合図するから」。えっ、知らない曲で初見なんですが...
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26. 家族写真

 

ここでは彼女を巡って、既に公になっている家族の興味深いショットを公開。
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27. 2015年 広島

 

広島に来たのは5回目、いや、おそらく6回目だと思うわ。」と演奏後、嬉しそうに話す 。確かに、1994年の呉の演奏会を入れると6回目だ。もともとヨーロッパで公演の予定があり、国際ピアノ・コンクールの審査も引き受けていたのに、広島に来たのは何故だろう。何が彼女を突き動かしたのか。
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28. 別府アルゲリッチ音楽祭-1

 

別府アルゲリッチ音楽祭、別名を Music Festival Argerich's Meeting Point in Beppu という。つまり、別府でのアルゲリッチとの出会いの場の音楽祭。出会いは演奏家同士のことでもあり、観客と音楽との出会いのことでもある。そしてアルゲリッチを迎えた音楽祭の元祖でもある。
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29. 別府アルゲリッチ音楽祭-2

 

さて、毎年とても充実した音楽祭であるのは当然素晴らしいのだけれど、私はこの音楽祭がもたらした画期的なことの一つは、アルゲリッチを写真に慣れさせて世界のメディアに引っ張り出した点があると思っている
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30. 別府アルゲリッチ音楽祭-3

 

別府では 、アジアの音楽家との交流を大切にしている他、音大生によるオケを登用し、彼ら/彼女らの音楽人生に多大なる財産を与えている。音大生オケ→プロより下手などという単純な思考はここでは成り立たない。
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31. 自宅訪問

 

1999年8月、バイロイト音楽祭とザルツブルク音楽祭に行った帰りにブリュッセルに立ち寄ることになった。するとアルゲリッチは、「私の家に泊まれば?」とあっけらかんに言う。「私はツアーに出ていていないけど、大丈夫、言っとくから」、と。そりゃあ嬉しいけど、即答なんかできない。
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32. ルガーノ音楽祭-1

 

ずっと憧れていたルガーノ音楽祭。連日、アルゲリッチやベテラン〜若手演奏家により刺激的な演奏が繰り広げられ、過去に演奏されたほとんどのものがいつでもsiteから聴く事ができ、ストリーミング中継もあり、さらに毎年CDもリリースされていてる。こんな素敵な音楽祭に一度行ってみたかった。
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33. ルガーノ音楽祭-2

 

という訳で、毎朝7時には朝食を済ませ、8時には観光に繰り出していた。ルガーノの観光スポットは、モンテ・ブレ、モンテ・サン・サルヴァトーレの2つの山と市内の聖マリア・デリ・アンジョリー教会、聖ロレンツォ大聖堂、湖畔、あとは船に乗っての訪問などなど。
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34. ルガーノ音楽祭-3

 

公演のトップ・バッターは、Geza とのバルトークの ルーマニア民俗舞曲。本来なら彼女はトリなのだろうけれど、最後の出番は嫌いなので、いつも出番は早い。彼は愁いのある曲の演奏は絶品で、誰にもあの味は真似できない。
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35. ルガーノ音楽祭-4

 

前日、1時間しか寝ていない、というのに今日の睡眠は2時間だけ。興奮状態なのだろうか。という訳で、今朝の湖。今日も7時に朝食を済ませ、さっそくケーブル・カーでサン・サルヴァトーレ山へ登った。
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36. ルガーノ音楽祭-5

 

今日の睡眠は3時間。ちょっとずつ長くなってきた。夜は眠気に襲われるのだが、程なくして夜中は完全覚醒。北の星座を楽しんだ。写真は、今朝の湖。今日は、朝一番にブレ山へ。こちらもケーブルカーで山頂へ行ける。急な斜面をぐいぐい登って行く。
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37. ルガーノ音楽祭-6

 

午後からリハーサル。今日の演奏会の目玉は、何と言ってもBabayan氏とのデュオ。ところがこれが壮絶なリハで、Martha がうまく弾けない度にイライラを募らせ、ピリピリした緊張感は空前絶後!
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38. ルガーノ音楽祭-7

 

睡眠も5時間取れたので、イタリアの避暑地で有名なコモに行ってみた。車で30分少々で行ける程近いのだが、反対側、湖の北側をぐるりと回って、まずはコモ湖の真珠と呼ばれるベラッジオへ向かった。
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39. ルガーノ音楽祭-8

 

今日は、諸事情で午前にオケ合わせ。朝は眠くてダメ、といつものセリフ。でも、展開されるのは、これ以上無い心の世界。
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40. ルガーノ音楽祭-9

 

夜中にホテルに戻って荷造り。仮眠して空港に向かった。チューリヒに1泊して帰路。夜は、チューリヒ歌劇場で、ベッリーニの歌劇 「カプレーティ家とモンテッキ家」。
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41. 木之下 晃さんと

 

彼は芸術家に卵のような石を渡して、その反応を撮っている。お道化て見せる人もいるし、はにかむ人もいるし、正にその人柄が出ていて実に面白い。アルゲリッチの写真は必見! こんな素敵な写真は誰にも撮れない。
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42. 第10回ショパン国際ピアノ・コンクール - 1

 

1980年に行われた第10回ショパン国際ピアノコンクール。この時の “事件” を期に、コンクールでの審査法が変わっていった。いわば歴史の転換点と言えよう。
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43. 第10回ショパン国際ピアノ・コンクール - 2

 

さて、1980年のショパン・コンクールでは、あからさまに極端な点を付けた審査員がいてフェアではない、という意見が出た。その原因となったのが、ポゴレリッチ。
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44. 第10回ショパン国際ピアノ・コンクール - 3

 

今回のコンクールで問題となった採点の方法は、ポゴレリッチという極端に個性の強い演奏に拒否ともいえる反応を示した審査員がいたので、よけいに混乱をもたらしたと言えよう。
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45. 指揮者は、○○○○○のようなものだ

 

2022年5月のシューマンのコンチェルト公演。水戸での演奏は、これぞアルゲリッチ!というべき名演 。いままでの彼女のシューマンのコンチェルト演奏の中でも歴代最高の一つであった。
 
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46. 豪華な楽屋

 

アルゲリッチとチック・コリアは親交があり、「彼はいい人よ」と言っていた。すると、アルゲリッチは「チック、何か弾いてよ、なにか」とリクエスト。
 
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47. 大失態

 

マーラー「千人の交響曲」。第U部は、夢のような天上の音楽から壮大なフィナーレへと続いて行く。終曲 “Chorus Mysticus はかなきものはすべて” で、合唱のバスは、この音が要求されている。
 
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48. チェロとピアノのための「若い王子と若い王女」

 

胸をかきむしられる程の甘美な旋律〜 リムスキー・コルサコフ作曲「シェヘラザード」第3楽章:若い王子と王女。家にはバーンスタイン/ニューヨークフィルのレコードがあったので、私は中学生の時、レコード盤が擦り切れる程聴いた。
 
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49. 夢はしっかり見続けていれば叶う。でも見続けているいるだけでは叶わない。

 

たった1曲だけのコンサート。ホールはダメ元で5か月前には抑えていた。いよいよ1か月前になったら、人に追いかけられる夢や空を飛ぶ夢を毎晩見て、極度の不眠に陥った。
 
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50. バイバイ

 

ああ、今日でしばらくお別れだね。楽屋も部屋もいつもたくさん人がいるけれど、最後の夜は、時々2人っきりでお話しする時もあったね。
 
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*あとがき

 

幸いにもアルゲリッチという偉大なピアニストと親しくなることができ、様々な体験をしてきた。本当に多くの方々にお世話になったからでこその体験であり 、ここに感謝を申し上げたい。
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