2023年7月14日公開 更新:2023年7月14日

マルタ・アルゲリッチと50年

50 Years with MARTHA ARGERICH

マルタ・アルゲリッチの知られざるエピソード  by Y. KOSEKI

 

27. 2015年 広島

「広島に来たのは5回目、いや、おそらく6回目だと思うわ。」と演奏後、嬉しそうに話す。「私は、ここの人が好きなの。」
確かに、1994年の呉の演奏会を入れると6回目だ。流石の記憶力である。もともとヨーロッパで公演の予定があり、国際ピアノ・コンクールの審査も引き受けていたのに、広島に来たのは何故だろう。何が彼女を突き動かしたのか。

2015年8月11日サントリーホール(GP)

広島公演は85日。70年目を迎える原爆の日の前日だ。広島ではウラン型、長崎ではプルトニウム型が落とされ、当時考えられた2つの原子爆弾の方式は日本で試された。戦後処理のイニシアチブを取りたかったアメリカの思惑はあった だろうが、何よりも、2つの型の原爆の威力を試したかったのは明らかだ。建物の破壊の程度から原爆の威力を測るために空襲に曝されていない都市を入念に選択し、原爆投下直後に調査団を派遣し てデータを集めている。しかし、平和記念資料館で、当時の広島市の模型と原爆が爆発した上空600mの火球のジオラマを見た時、猛烈な怒りと許せない気持ちでいっぱいになった。地面に落ちて爆発するのではなく、上空600mでの破裂。それは、最も破壊力のある冷徹なまでの方式であり、あの火球の下に、何も知らないで朝を迎えていた市民が大勢いたかと思うと、戦慄が止まらない。あれは明らかに人体実験、いや、動物実験だったのだ。

当時のアメリカは、人種差別どころか、恐らく日本人を救いようの無い動物程度にしか思っていなかったと思う。日本だって、アメリカを同じように思っていただろうし、原爆を手にしていたなら、躊躇無くアメリカに落としていただろう。何発も。それが戦争というものだ。日本とアメリカが逆の立場だったら、京都や奈良を真っ先に空爆していただろうし、原爆を使う前に「使用すべきではない。使わなくとも戦争は終わる。」という意見は、日本では出なかったと思う。

火球のすぐ下にいた人の話を聞いた。朝、「パーン」という、風船が破裂するような音がしたと思ったら、いきなり家の下敷きなった、という。原爆、というと、とてつもない轟音と地響きかと思ってしまうが、それは爆風で建物が倒壊する音なのであって、上空での核爆発の音そのものは、乾いた音らしい。彼は直下にいたので、その音を聞いたのだった。彼の話は続く。「それは、地獄そのものでしたよ.....」 彼は、幸い家の壁に守られ即死は免れたが、その後、何十年も後遺症に苦しむ事になる。彼の口から出たものは、頭底文章になどできない。直に聞く話ほど物凄い説得力はない。硫黄島だって、生存者の証言は、映画などとはかけ離れた壮絶なものだ。

2015年8月11日、サントリーホール

コンサートでは、アウシュビッツの話が朗読された。アニーの朗読は見事で、ぐいぐい心に飛び込んでくる。2010年のショパン・コンクールの3次予選を聴きに行った時、アウシュビッツ=ビルケナウ博物館へも行ってきた。そこには、日本人ガイドの中谷さんがいらして、それは衝撃的な体験だった。どれだけ壮絶な世界か、ここへは世界中の人達が時間を作ってでも是非訪れて欲しい、と思う。多くの事を質問したが、最も印象に残ったのは、「 ドイツ人が訪れた時、ユダヤ人、イスラエル人達は、どのように反応するのか?」の答。
「 軽蔑や憎しみの眼差しではなく、しっかりここを見ていって欲しいという思いです。ここへ来るのには勇気も要ったでしょう。その人達を、どうして軽蔑できるでしょう。」
日本では、平和記念資料館を訪れるアメリカ人達をどのように迎え入れているのだろうか。そこが平和への第一歩なのだろうと思う。核兵器は、世界中の政治家がまともなら無くなるだろうけど、見渡してみると、あまりに粗末な政治家、国家、組織が多すぎて、絶望的な気持ちにすらなる。国家体制、政権維持のために犠牲になっているものも多すぎる。そのために利用されるナショナリズム。ナショナリズムは、相手が人であり、家族がいて、そして生活している事を見失わせ、時として武力に訴える事も止む無し、という風潮にもなる。その国で生活し、その国の暮らしが見え、尊敬できる文化があり、友人がいたら、そこに爆弾は落とせない筈だ。戦争をしたいなら、その人間達は、まず相手国で、自分の手で生活してみるがいい。それでも戦争がしたいなら、自分とその家族だけで、閉ざされた場所でやるがいい。

不思議なのは、日本で「誤爆」というニュースが流れる事だ。爆撃を誤り「誤爆?」、意味がわからない。ただの殺戮ではないのか。アメリカ人1人より、アラブ人1万人の方の命の方が軽いとでも言うのか。やはり、人種差別が根源にあるのか。民間人か兵士か、なんて殺された人には関係ない。徴兵で戦争に駆り出された兵士だって、もともと民間人だし、皆、それぞれ人生があり、家族がある。

また、ナショナリズムのみならず、宗教や政治も、生物としての人の本能:種の保存、子孫繁栄、そして防衛本能が働き、反映している。民主主義や社会主義の普及、布教のためなら犠牲も止む無し、の歴史は限りなく繰り返されている。アウシュビッツの拷問は特殊な人間によって行われたのではなく、中世には、宗教の名のもと、あらゆる拷問があり、生きたまま焼かれた人達もたくさんいた。また、生物の自己防衛本能は、自分と近いものも種の保存上、危険、と認識し、攻撃の対象となる場合もある。それは、学校でのいじめにまで反映される。人は歴史から学ぶだけでなく、思想、行いも生物の本能が係わっているのを理解しなければ、同じ過ちを繰り返えしていく。

さて、コンサートの1曲目「エグモント」序曲。冒頭の力強い弦を聴いて、広島交響楽団の並々ならぬ覚悟と思いの強さに心を打たれ、釘付けとなった。それが、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番へと繋がっていく。アルゲリッチの緩徐楽章は、もはや神憑り的と言ってもいい程、深遠な世界だ。難しいパッセージ、難曲をバリバリ弾きまくるのは、ごく当たり前のこの時代、当然、彼女は、とうにその遥か上を行っている。しかし、ピアノを習ったことが無い人でも簡単に弾けるほど簡単なパッセージ、単旋律に生命を入れ、限りなく果てしない音楽として聴かせられる音楽家は、本当に限られる。ショパンのピアノ協奏曲 第1番の2楽章、ラヴェルのピアノ協奏曲の2楽章しかり。

2015年8月11日、サントリーホール

今回の演奏会のテーマは、「平和の夕べ」。この2楽章の演奏こそ、永遠の平和の世界を表している。というより、第2楽章の主題の再現部など、もはや死後の天上の世界のようだ。「エグモント」序曲とベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番は、19644月に行われた広島交響楽団の第1回定期演奏会で演奏された曲だ。そして、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番は、20022003に、東山小学校の管弦楽クラブとアルゲリッチが共演した曲でもある。また、2010には、千葉県少年少女オーケストラとシューマンのピアノ協奏曲を共演している。子供だった彼ら/彼女らは大人になり、サントリー・ホールでのリハーサルに招待された。

アルゲリッチと共演、そして 再会が何を意味するのか、言うまでも無い。また、同公演には、天皇・皇后両陛下がご鑑賞された。皇后様は、ピアノの名手として知られており、海外の著名な音楽家との共演も多い。アルゲリッチとも親交があり、幾度もお会いになられている。

さて、広島公演の翌日、平和記念式典に参加する、という。彼女は、完全な夜型人間で、明け方に寝、午後起きる生活をしていて、午前11時のリハーサル、というと、「眠い!、だめだ!」を連発する位なのに、 朝7時にホテルを出て式典会場に向かった。席に案内された時、正面の慰霊塔をじっと見て、しばらく立ったまま微動だにしなかった。祈りだったのだろうか。

帰りの新幹線で、見事な入道雲に遭遇した。今年は、例年に無く、暑く、濃い夏だった。

*政治絡みの意見を述べ ると、やれ共産主義者だの右翼だのと鋭敏に反応する人がいるけれど、私は共産主義者でなければ、右翼でもない。また、反米主義者でもないし、いかなる団体等にも属していない。ただ一つ憂うのは、世界的に見て政治家のレヴェルが低すぎる点だ。ある時、とある国の人が、「私の国の政治が酷くて」と言った時、私は間髪を入れず「いや、日本の方が酷い」と言いった。すると別な国の人が、「何いっているの?私の国の方が酷いよ」、さらにもう一つの国の人が「いやいや、私の国の方が酷い!」と皆譲らなかった。すると、最後にアメリカ人が「私の所はブッシュ(子)だから」と言ったら皆納得した、という笑うに笑えない事もあった。

現行の選挙制度だと、名誉欲のある人、自己顕示欲の強い人ばかり集まってしまう。また、小泉政権の時を振り返ってみても、中身ではなく、イメージだけであの選挙結果をもらすのだから恐ろしい。しかも、当時の誤った政策が招いた諸問題は、何一つ追求されていない。ヒトラーだって、当時人気があり、選挙で選ばれたのを忘れてはならない。日本は、国民の1/465歳以上の高齢者、しかも認知症の人がこれから莫大に増えていく国だ、というのに、一番の税金の無駄遣いである国会議員が700人以上もい る。この間も、自民党の議席を少し増やすために、600億円以上も浪費された。国会議員は、良識のある200人で十分 だと思う。政党は不要。そうすれば、毎年500億、10年で5000億円もの無駄使いが省ける。近隣諸国の政治の酷さに呆れている場合ではない。憲法の解釈と運用で交戦権を有する軍隊まで持てるなら、日本は法治国家ではない。国の根幹である憲法があっても、したたかな外交という現実の方が優先されているこの現代。本来は、国民の事を考え、国民のために政治がなければならないのに、世界的に見ると、国民と政治が敵対している国も多い。結論はとうの昔に出ているのに、道はまだ遠いのが残念だ。
 

アルゲリッチの録音、来日記録:Martha Argerich Recordings

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