2023年7月9日公開 更新:2024年3月2日

マルタ・アルゲリッチと50年

50 Years with MARTHA ARGERICH

マルタ・アルゲリッチの知られざるエピソード  by Y. KOSEKI

 

25. 恐怖の譜めくり

2003年10月19日、鎌倉芸術館(ゲネプロ)

2005年、別府。マラソン・コンサートのリハを聴いていた。ブラームスのクラリネット五重奏曲。クラリネットのパートはバシュメットがヴィオラで弾いている。私はこの曲を知らず、なる程、と 呑気に聴いていた。するとアルゲリッチが、「ねえ、譜めくりやってよ。大丈夫、ちゃんと合図するから」。言われるまで気付かなかったが、別府では長年、アルゲリッチの譜めくりをやっている美人で最強の吉武さんがいない。えっ、知らない曲で初見なんですが...

普通、譜めくりの人は、ピアニストの斜め後ろに座って、譜めくりのタイミングが近づいてくると、おもむろに立ち上がり、スッと譜をめくる。タイミングは言うまでも無く、早すぎてもダメ、遅すぎてもダメ、下手クソがやったのではストレスが溜まる一方で、良い演奏なんて出来やしない。で、おもむろに壇上にあがると、「えっ、アルゲリッチのピアノの音が客席とは全然違う。強烈!」。 冷静に、冷静に!と言い聞かせて拍子をカウントする。間違いない譜めくりをするには、つまりは見落としをして、どこを演奏しているのかわからなくなってしまうのを防ぐには、単純にカウントしていくのが初心者の鉄則だ。普通、十分に弾ける人が行うのでそんな必要は無く、純粋に同時進行だ。

さて、椅子になんか座れない。ずっと中腰のままだ。めくる遥か前からめくる準備で、キドキだ。ところが、アルゲリッチが、そしてバシュメットが物凄いフレーズを弾いたりするので、仰天して目がそっちへ行ってしまう。気付いた時には楽譜を追えなくなってしまっていて、開かれている譜面の始めから何倍速かで楽譜を追いかけている。で、ある個所でリピートがあった! 完全に見落としていた。アルゲリッチが急にガガッと譜面をめくって戻している。演奏中断。ああ、邪魔をしてしまった... そこで、最強の譜めくりの吉武さん登場。全身から冷汗が噴出したのは言うまでも無い。

思い返せば、1995年の東京交響楽団の定期演奏会のマーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」。合唱で歌っていた時、フィナーレでオルガンの松井さんが崩れてしまった。空調の風で譜面が飛んでしまった、と聞いた。音楽での自虐ネタは酒の席ではもってこいの肴だ。私のチェロの先生に自分の失敗談を話したら、彼はチェンバロの鍋島さんのコンサートで譜めくりをしていた時、めくった勢いで楽譜をふっ飛ばしてしまった、とか。腹をかかえて笑ってしまった。

音楽での失敗談で事欠かないのは指揮者の山田一雄先生。私は彼の「指揮の技法」で指揮の勉強をした。ベートーヴェンの交響曲第5番の冒頭の拍で指揮棒が折れ、2階客席まで飛ばしてしまったとか、マーラーの「千人の交響曲」(演目には所説あり。もうしかすると幾度かあった?)では、指揮台から落下して、振りながら壇上に上がってきたとか、多くの武勇伝がある。私のチェロの先生はオケ(新日本フィル)で次席奏者、一番前で弾いていたが、山田先生は演奏している個所がわからなくなって、小声で「今どこ?、今どこ?」と聞いたこともあったという。しかし、彼の思い出話をする時、みな涙を浮かべている。あんなに愛された指揮者はいないのではなかろうか。

ちなみにアルゲリッチは、マイスキーは譜めくりはうまい、と言っていた。タイミングが絶妙とか。

2005年5月、コンサート前のアイロンがけ(東京)
 

アルゲリッチの録音、来日記録:Martha Argerich Recordings

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